2006年05月

ドゴン族の言語ーーー気になる!

また某所で面白い話を聞いていたのですが、やはりドゴン族は別格だそうです。
アフリカの部族の中でのひと味違うらしい。

何がひと味違うかというと、
人間が色々進化する過程を研究したりする上で非常に興味深いということです。
例えば、文明社会になるに従って意識の上で失われてしまったものがあったりするのですが、ドゴン族はまだそれを保持しているとか、そういう関連の話です。

ドゴン族で一番知られていることと言えば、
アメリカのネイティブインディアンであるホピ族と並び称されるような、独自の世界観とか神話を持っているという辺りです。

それは、まあいいんですが、とりあえずアフリカというと何かということになりますが、アフリカとは人類が始まった場所であります。そうすると、言葉を少しずつ発展させて、どんどんヨーロッパに到達して、それからユーラシア大陸を横断して、ベーリング海峡を渡って北米にたどり着いて、そのまま南下して、南米の突端までたどりつくのが人類の動きなわけですが、(この辺って冒険家の関野さんが通った行程の逆方向と言うことです)。

関野さんが行ったグレートジャーニーについて
(上記のサイトのプロフィールから)
医師(外科)となって、武蔵野赤十字病院、多摩川総合病院などに勤務しながら、南米通いを続けた。1993年からは、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。 南米最南端ナバリーノ島をカヤックで出発して以来、足かけ10年の歳月をかけて、2002年2月10日ついにタンザニア・ラエトリにゴールした。 1999年、植村直己冒険賞(兵庫県日高町主催)受賞。 2000年 旅の文化賞(旅の文化研究所)受賞。 現在、武蔵野美術大学教授(文化人類学)
そういうことで、アフリカ人が保持している色々な文化は何か人類の発展の過程にすごくヒントが隠されている要素がたくさんあるんでしょうね。

で、私は特に言語に興味があるんですけど、
ドゴン族の言語がどんな風だ、というのは具体的にはまだ知りません。
とても興味のあるところです。

ただ、今日聞いた話では、ドゴン族が「ホニャララ(←とりあえず4音節としておく)」と言う意味を日本語に訳すと「ホニャララの時にホニャララしてホニャララなものがホニャララだった(←28音節とします。)」くらいの違いがあるらしいです。

これは驚きですねーーー。

言葉の違いは意識というか心理の違いに何らかの関係があるでしょうから、そう考えると日本語というのがドゴン族の言語と比べると色々なことを細分化して規定している言語なのかもしれません。とはいえ、ドゴン族と日本の距離はあまりにも遠いので、すぐに、ここがこんな風に違うと言う風には言えないと思いますが、まあ、とにかく人類がどんどん細分化して何かを言いたくなっていったんだろう、という推測ぐらいはできます。

いやーーーー、すごいですねーーー。




  

「バカなおとなにならない脳」感想&メモ書き 不定冠詞と定冠詞編

P120
ところで、言葉ができるかできないかというのは、どういうことかと考えてみると、これはじつは、「同じ」っていうことと、「ちがう」っていうことと関係があるんです。(中略) 

そもそも言葉と言うのは・・・・・・まず感覚でとらえられるものがあって、そこに存在するものを指して一気に、たとえばりんごなら「りんご」ととりあえず言いますね。ところが、感覚的にとらえた一個一個のリンゴは、ほんらい、すべてが違うものでしょう?ひとくくりに同じ「りんご」と言ってしまうには、むりがあるくらい、大きさもつやかたちも、微妙にひとつずつちがう。(中略) だけど、とりあえず「りんご」とくくれば、頭の中にあるりんごと対応する。それにそうしないと、他人と「りんご」の話ができない。
つまり、自分の頭の中にも、他人の頭の中にもあるのは、ここでは「同じ」りんご。これがつまり、「りんご」という「概念」なんです。これがないと、友達や先生や親、誰とも話はできない、ってことはわかりますよね。 で、このちがいを英語で言うと、同じりんごのほうは、"an apple"、ちがうりんごのほうは、"the apple"となるわけです。
ちがうりんごが"the apple"???って最初はすごく「あれ?」って思うんだけど、確かにそうなんですよね。the appleというのは、異なる様々なりんごを一くくりにしてthe appleってことですからね。
P122
気をつけないといけないのは、ここで言っている「同じ」と「ちがう」ということ、これはふつうでいうところの反対語、じゃありません。頭の中の「概念」と、感覚でとらえられる、具体的なモノ、というちがいです。
こういうアプローチって言語学系の本を読んでいるとあまり見ないような気がするんですが、切り口としては新しいのでしょうか。ああ、でも、どちらにしても、どんな分野の本も別にちゃんと読んでいるわけではないので、何もわからないのですけど。あるいは、言語学系の学者さんがこれを読んだらどんなリアクションをするのか知りたい。
P123
日本語の場合はどうなるか、考えてみます。
たとえば、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが」と言いますね。
で、次には「おじいさんは山へ芝刈りに」と言うでしょう
前者は、「おじいさん<赤>が」、後者は「おじいさん<赤>は 言葉は基本的に、こういう「同じ」と「ちがう」という区別を、キチンとしているんです。さっきの日本語の場合、「が」は不定冠詞、「は」が定冠詞、というわけです。
でも、国語の先生は、こういう考えかたや教えかたをしない。それは脳の働きを導入しないで、言葉だけの世界で説明しようとしてきたからです。でも、いまの説明で、不定冠詞と定冠詞のちがいについては、はっきりするでしょう?
この問題は日本語の文法の話だと「ゾウは鼻が長い」という例文でよく説明される話です。
でも、それの説明はどれもなんだかとても難しく感じていました。
そして、これが定冠詞と不定冠詞にあたるという説明は私は初めてだったので、結構衝撃的でした。

普通の説明はこんな感じです。
参考サイト1:Q: 助詞の「は」と「が」の使い分けについて教えてください。
http://www.pantomime.org/nihongo-tusin/note.html


■『は』(副助詞)と『が』(格助詞)の使い分け
●「既知(すでに知っている)・旧情報」は「は」/
「未知(まだ知らない)・新情報」は「が」

これは、未知のものについては、不定冠詞、既知のものについては定冠詞、という説明と同じですよね。
英語のaとtheを初めて習ったときも、こういう説明を受けた気がします。

だから、なおさら「同じ」と「ちがう」という切り口で説明するのは、非常に衝撃的でした。
とはいえ、「は」が副助詞で、「が」が「格助詞」なんてことなる品詞だったってことすら、私は知りませんでした。いやー、日本語は大変ですねえ。

参考サイト2:「~は~が~」構文について
http://homepage3.nifty.com/taketoki/hagakobun.html

ここにもかなり詳細に分析してあります。

まあ、とにかくこういったものを読んだとしても、ただただ私は「ほぇー、すごいなー」と感嘆するばかりなのですが、何かとにかく養老孟司が言語に切り込む切り口は、今まで読んできたものと切り口がちがうのでかなり関心があります。また、何か見つけたら記していきたいと思います。


  

「バカなおとなにならない脳」感想&メモ書き マンガと顔文字編

この本も養老孟司の本です。
よりみちパン!セという子供向けの教養本シリーズがあって、谷川俊太郎も関わっていて、しかも挿絵は売れ線の100%ORANGE/及川賢治が描いているという、本です。

http://www.rironsha.co.jp/special/series/main.html
とおもったら、ヤングアダルト新書で対象は中学生以上とのこと
「学校でも家庭でも学べない「いま」を生きていくためのたいせつな知恵のかずかずについて、刺激的な書き手たちが、中学生以上すべての人に向けて、読みやすくコンパクトなかたちで書き下ろします。」

子供が養老孟司に対して色々な素朴な疑問を投げかけて、それに答えるという体裁です。
私はとにかく言葉系のところに反応してしまうので、そのポイントを中心にメモ書き。
P111
日本人の脳の特徴を知りたいです。
日本人の脳はほかの国の人の脳と、どうちがうんですか?それに死ぬまでぜったいに外国人の脳になることはないのですか。それから、国による脳の違いを教えてください。
香織さん(15歳) 高一・山口県

まず第一に、日本人の脳で一番特徴があるのは、言葉に関連した部分です。
そして、日本語くらいヘンな言葉はないんですよ。どこがヘンかというと、漢字を音訓読みするところなの。音訓読みなんて、そんな字の読み方をするところは、世界中で、ほかにどこにもない。

中国語は、あたりまえですけど、音読みです。朝鮮語は漢字が入ってきたとき、全部音読みとして取り入れた。ところが、日本は漢字に送り仮名をつけて、訓読みにもする。つまり、漢字を日本語にしちゃったんです。みんな、ほとんど気づいていないけどね。
それから、「失読」っていって、字が読めなくなる場合、漢字が読めなくなる人と、仮名が読めなくなる人が療法いるんです。しかも両方いっぺんによめなくはならない。そんなに大きく壊れると、意識自体が失われます。
リービ英雄との対談でもこの話が出てますが、 私が一番疑問だったのは、中国や朝鮮半島の人も漢字を使う。表意文字という漢字を使うけど、それは私たちはどうも漢字は絵として認識しているみたいだけど、中国や朝鮮半島の人もそうなのかどうか、ってところが知りたかったんですよ。でも、上記の話から行くと、そうではない、ということになりそうですよね。

それで、私は前々から日本の顔文字はすごい豊穣な文化だと思っていて、これは全然アルファベットの言語の人たちは全然かなわないんですね。顔文字の種類、表現の豊富さともども全然違うんです。なんでだろう、というのを思っていたんですが、日本語は2バイト文字ですからローマンアルファベットの人たちが使える文字数に比べたら、桁違いに多いので、使う文字の選択肢が多ければ、それだけ豊富な表現ができるだろう、ということは考えられるな、と思っていたんです。

参考リンク:多バイト文字とは 【multi-byte character】 ─ 意味・解説 : IT用語辞典 e-Words
http://e-words.jp/w/E5A49AE38390E382A4E38388E69687E5AD97.html

でも、それなら同じ漢字を使う中国や朝鮮半島でも豊富な顔文字文化が生まれていても全然おかしくはないはずですよね。でも、みたところそれほどでもないようです。あ、でも韓国は結構独自の顔文字文化があるようです。

参考リンク:韓国の顔文字
http://www.kijeon.ac.kr/kms/sms/imo.asp?key=%C3%E0%C7%CF/%B1%E2%B3%E4
これは、でも、主に携帯メールで使う顔文字のようです。日本のと同じスタイルがありますが、どっちの文化がどっちに流入したのかはちょっと良くわからないですが。(おそらく日本→韓国だろうけど、確証がないのでなんとも言えません)
http://www.kijeon.ac.kr/kms/sms/imo.asp?key=%BB%E7%B6%FB/%B0%ED%B9%E9
こっちのページをみると、ハングルで色々な造形を作っている。

私もこのたぐいのページは色々と探しましたが、中国語圏のものって見たことないです。
そういう意味で言うと、やはり日本と朝鮮半島&中国は違うということなのかもしれません。
中国にも朝鮮半島にも失読症は1種類しかないのでしょうか。

じつは、漢字を読むための場所と、仮名を読むための場所って、脳の中で違う場所にあるんです。
だいたい日本の漢字の読みというのは、一つの漢字に対して、いくつもいくつもあるわけでしょ。「重」を”「重」い(おもい)”とも読み、”「重」ねる(かさねる)”ともよむ。(中略) それに今度は「大」を続ければ”「重」大(じゅうだい)”、”「重複」(ちょうふく)”という読み方もある。(中略) そんな風に、日本語は、文字と音声を、簡単には結び付けられない言語なんです。

だからね、まず漢字のもっている意味を、先にとる、ってわけでしょ。これはね、日本でマンガがこれほど盛んなことと、あきらかに関係がある。どうしてかというと、マンガの絵は漢字なんです。ふき出しが、読みにあたります。しなわち、一つの意味を持った図形に対して、いろいろな音声をふることもできるわけだよね。(以後略)
そうなのよ!これがまさに私が知りたかったことなんです!
フランスにもバンド・デシネといって、フランス独特のマンガ文化があるし、ほかの国のマンガもいろいろ見てみたのですが、表現が全然違うんですよね。フランスのBDの展覧会に行ったときの事を書いたエントリがあります。マンガに詳しい大学の先生に、そのあと日仏のマンガの表現の違いは日本が表意文字を使っているからではないか、という質問をしたのですが、以下のような答えをいただいています。

「表音・表意文字文化とかでなく、絵というものについての概念の違いだと考えます。西欧では、ギリシア&ルネサンス以来、絵を視野の再現としか考えない。これに対して非西欧圏(日本ないし東アジアだけでない)では絵は平面上にセットされる記号です。後者では、絵は、文字やその他の表現伝達ツ-ルと容易に混じるのです。 詳細を書く余裕がないのですが、これは、今日グロ-バル化している西欧文明と、非西欧文明との対立の問題と繋がってます。」

ということで、これまた違う角度からの考え方がありますが、それでも養老孟司のマンガの絵の部分が漢字で、セリフがカナだというのはとてもすんなり納得できるような気がします。というのは、日本的なマンガの表現をしている国が、欧米以外のマンガで余りなかったような印象があったからです。あるいは、あっても、明らかに日本のマンガの影響を受けているな、というものです。ま、とはいえ、私は別にしらみつぶしに中国とか韓国のマンガを調べたことがあるわけではないので、うかつなことはいえないのですが。

とにかく、私が感じたことは日仏マンガの違いは「やはり文字と絵が渾然一体になっている。それに対して、フランスのマンガは絵とセリフ内の文字が明確に区別されている。お互いがお互いの領域を侵したりはそれほどしない。」ということです。あと、汗とかガーンとかそういうのも擬音語だけではなくて、擬態語もふんだんに絵と一緒になっているのが日本のマンガだと思いました。

顔文字についても、何かこの辺と関係があるのではないだろうか、と思うのです。
日本の顔文字ではギリシャ文字や数式の文字も大活躍します。
たとえば、こんなの「(・ω・*)」とか、こういうの「Σ(゜◇゜;)ガーン」とか、こんなの「(・∀・)」です。
それは、文字として見ているわけではなくて、造形をつくるパーツとして見ている。漢字がマンガの絵なら、漢字は造形を作るパーツとして見ることができます。だから、意味や読み方のわからないギリシャ文字などは、漢字と同じくくりで認識しているのかしら、などと思いました。

【関連記事】
「ニッポンを解剖する」の感想&メモ書き ーリービ英雄 前編ー [2006年05月05日(金)
http://blog.drecom.jp/hiroette/archive/1204

フランスのコミックのシンポジウムに行く [2003年08月03日(日)]
http://blog.drecom.jp/hiroette/archive/237



  

「ニッポンを解剖する」の感想&メモ書き ー山浦玄嗣 後編ー

前編」の続き

P58 私もよく、聖書というのは神様に対する誤解の本だ、誤解の歴史を書いた本だというんです。  私、翻訳をしたおかげでいろいろな発見をしたんですけど、一番の発見は、「私は真理である」という言葉です。ずいぶんいろんな神父様たちに、この言葉の意味を聞いたんです。でも、かえってくる答えは、「これは、聖書前編を熟読玩味し、思考に思考を重ねた結果、到達する深遠な哲理であって、そう簡単にわかってたまるか」(笑)。あるいは、「だいたいわかろうとするのが、まちがっておる」とか一喝されて。でも、そんなはずないと思ったんです。  ルイ14世が、「朕は国家である」といいましたよね。これも日本語として意味が通らない。これはきっとヨーロッパ人はこういう言い方をするんだろうと思って、ヨーロッパ人にも、アメリカ人にも聞いたけど、やっぱりわからない。
ちなみに、一応フランス語で「朕は国家である」は何というのだろうと調べたら
”L'etat, c'est moi”でした。
文法的な直訳だと、「国家、それは私」みたいな感じでしょうか。
でも、本当にこんなことルイ14世は本気で言ったんだなあ。

私は理科系ですから、実験したんです。「AはBである」のAとBにいろいろんなものを入れてみる。「その男は漁師である」「その漁師は越喜来の人である」。これは意味がわかりますよね。この場合、AもBもモノ名詞です。あるいは、「真理は独断である」「力は正義である」と、両方コト名詞でもいい。でも、「モノ名詞はコト名詞である」、あるいはその逆というのは日本語では成り立たない。「海は希望である」「山は絶望である」「愛は糠みそである」。なんかわかったような、わからないような。詩人はこういう言い方が好きですけど、本来の日本語としてはおかしいわけです。  では、ギリシャ語の場合、このモノゴト調和を壊していいのか。いったいどういう方程式を立てれば、それがわれわれにもわかるようになるのか。いろいろな人にしつこく、しつこく聞いたり、自分で必死に考えたり、四苦八苦したけどわからない。たった一人だけ、それは言語の問題でも、聖書学の問題でもなく、哲学の問題だといった人がいたんです。  それで、最後にわかったのは、ギリシャ語で「私は真理である」と書かれている場合、「真理」という名詞は主格補語で、存在を措定(存在するものとして規定すること)されない。つまり、存在の認識がない。そして、この「真理」と言う言葉の内容が、主語を規定している。つまり、「真理」は「私」という主語の属性と考えればいいということです。
養老 : 日本語なら、形容詞か、動詞で言うべきところなんですよね。
確かにフランス語でも名詞化していうところが多いような気がします。大昔、フランス語初級くらいのころ、何を血迷ったかフランス語の翻訳の勉強でもしてみよう、と思って通信講座をとったんですが(あ、やっぱり途中で挫折しましたが、、)、そこでも訳のこつというと、名詞化したり、名詞化されたものを日本語で形容詞にしたり形容動詞にしたりっていうのを繰り返しやらされた記憶がおぼろげながら蘇ってきました。
山浦 : 2、3年脂汗を流して考えて、ようやくその方程式が見つかったので、全体が実に明快にわかるようになりました。国語辞典によれは「真理」とは、「ある物事、事柄に関して、あらゆる場合にあてはまり、それ以外には考えられないとする知識、判断」です。福音のテーマは「人間がいかに幸せになるか」ですから、この場合の「ある物事、事柄」は、「人間んが幸せになるなり方」ですよね。つまり、「私は真理である」というのは、「私は、人がほんとうに幸せになる、なり方を知っている」という意味だと。
いやー、すごいですねー。なんていうか、ここまできちんと考えるっていうのが本当にすごいと思う。私も、なんかもやもやしたことがあって、それを明確化したいと思ったりするんだけど、こういう風に自分の力で明確化できない。
聖書には、こういう言葉がたくさんあるんです。「私は復活である」。この「復活」は「アナスタシス」という言葉の翻訳で、アニステーミという動詞の名詞形なんです。アニステーミは基本的には「立ち上がらせる」という意味ですから、「私は、生きているのに死んだようになっている人をいきいきと立ち上がらせる」とすればいい、そうすれば話が通じるんです。
この次が非常に面白いです。日本語とギリシャ語の違いを端的に説明しています。
P60 養老 : ギリシャ語では肝心なところを名詞でいう。そこが日本人にはわかりにくいんですね。 山浦 : 日本語では、本当に大事なことは、名詞より形容詞と動詞でいいますからね。私は医者ですから、患者さんのお腹をさすりますよね。それで、「痛いッ」といったら、こりゃほんとに痛い、すぐ切らなきゃならない盲腸かもしれないと思う。「あそこが痛む」なら、かなり危険な状態だ。でも、「その辺に痛みがあります」といったら、これはゆっくり調べよう。明日、胃カメラでもするか、と。それぞれの言語がもつ、そういう基本的な表現の違いは、ただ言葉を置き換えればいいわけじゃない。
この話はかなり肝だなーって思いました。
前にすごい不思議だな、って思ったのが目にゴミが入って痛いときがありますよね。
「目にゴミが入っちゃった!」と言うわけです。
それで、日本語勉強中のフランス人がそれを何と言ったかというと
「目の中にホコリがあります」とかって言ったんですね(ちょっと正確な言い回しは忘れました)
なんか変な言い方するなあ、って思ったんですが。
そうしたら、フランス語では
J'ai de la poussiere dans l'oeil.
(直訳すると私は目の中にゴミを持っている)
と言うらしいんですね。

まあ、個人的な興味としては大事なことをなぜ名詞でいうようになったのか、
なぜ大事なことを動詞や形容詞で言うようになったのか、っていうのが気になりますけどねー。
あとは、そういう風に言うようになった心理背景に違いがあるのか、ということ。

でも、この話を読んで、やはりフランス語を読む時に
少しでも難しいのを読もうとすると、もう全然わからなくなっちゃうわけですが、
それを少しでも減らすのにはこの考えが結構役に立つのかな、、と思ったんですね。
うーん。




  

「ニッポンを解剖する」の感想&メモ書き ー山浦玄嗣 前編ー

次に、「ニッポンを解剖する―養老孟司対談集」の中でとても面白かったのが山浦玄嗣さんという方との対談です。
本の中に記されているプロフィールは
「1940年、東京に出生後、岩手県気仙郡越喜来村および盛町に育つ。(中略)医業のかたわら気仙地方の言葉「ケセン語」を研究、『ケセン語入門』、詩集『ケセンの詩』、『ケセン語大辞典』、『ケセン語訳新約聖書・マタイによる福音書/ヨハネによる福音書』などを上梓。2004年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に『ケセン語新約聖書』全4巻を献呈した。」
という方です。

ケセン語というのは気仙地方の方言をそういう風に表現したわけで、気仙地方は人口8万人に満たないくらいだそうです。話者はそのくらいということですよね。それで、この方はもともとクリスチャンで、どうしても聖書の言葉を自分の言葉で訳してみたいというのがあったそうです。

P50
山浦 :ご存じのとおり、東北の言葉はズーズー弁といわれて、われわれは長い間、それはそれは悔しい思いをしてきました。とくに私が小学生のころ、国の教育方針は「方言撲滅」で、標準語こそ、唯一の正しく美しい言葉であり、方言をしゃべるものは無教養な愚か者だと言われていたんです。それが悔しくて、大人になって医者をするかたわら、気仙地方の言葉の研究を始めたんです
それで、この言葉を文字で表すにしても、50音表には載っていない発音があるんですね。だから、その特別の文字を作ってしまいます。たとえば「し」と「す」の中間音、「ち」と「つ」の中間音、「いぇ」の音など。それでも限界があってケセン式ローマ字をつくったそうです。10年かけて、正書法が確立できたので、1986年に『ケセン語入門』という本を出したそうです。

すごいですねえ。なんか言葉の研究って気が遠くなるような根気が必要なんですよね。気仙地方にはたまたまこの山浦さんがいてくれたから、研究してもらえたけど、日本全国、いや全世界にはまだ手つかずの言語がたくさん残っているわけですよね。それ一つ一つ研究するにしても膨大な手間がかかるんだろうから、いやはや、途方もない話です。

山浦 : その後も研究を続けまして、2000年に、『ケセン語大辞典』を出しました。これはケセン語の文法理論をさらに完成させ、体系化したもので、文法編と語彙編の二部構成。語彙編に収録した見出し語が34000語、2巻合わせて2800ページの大冊です。そこまでいくのに25年。やっと聖書を翻訳するための基礎ができたわけです。 
聖書をケセン語訳してみたいな、ってふと思ったとしても、下準備に25年ですよ。すごいですよね。。
ユダヤ人の知り合いで、やはり本人は職業として学者をしているわけではないのですが、仕事の傍ら研究をしていて、ユダヤ人の名前のルーツを全部調べて辞書にした人がいました。名前が終わったら、名字もやっていました。そういうコツコツ進める作業って本当にすごいと思います。

新約聖書の日本語訳は奇妙な言葉が多いそうです。確かに、ああ、なんかいわゆる聖書の言い回しだよな、というイメージがある。

P53
「救いは神を畏れる人に近く、栄光はわたしたちの地に住む」。「栄光は地に住む」なんて、日本語として意味が通じないですね。(中略) 「わたしは生まれたときから悪に沈み、母の胎(はら)に宿ったときから罪に汚れている」なんて、鬱病患者の妄想じゃあるまいし(笑)。
こんなおかしな日本語でお祈りして、わかったような気になっているのはおかしい。ですから、これをなんとか自分たちにとって当たり前の言葉、ちゃんと腹の底にとどく、本音の言葉にしたいと思ったんです。そこで、最初は、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した日本語の「聖書新共同訳」を訳そうとしました。(注:カトリック教会とプロテスタント教会が共同で翻訳に取り組んだ聖書のうち、1987年に完成した日本語の現代口語訳聖書。翻訳には日本を代表する聖書学者、両派の神学者が名を連ねた。日本で最も普及した、かつ権威のある聖書。)
ところが、やってみると、わけのわからない文章が次々と出てきて、とてもケセン語にほんやくすることはできない。これはギリシャ語の原典から直接訳すしかないということで、まあ、大変な目にあったわけです(笑)。

いやー、聖書をケセン語に訳してみたい、という気持ちだけでギリシア語の原典に臨むことになるなんてすごいですよねえ。そのためにギリシャ語も勉強しないといけないんですよね。なんか、本当にこの途方もないエネルギーがすごいなーって本当に思うんです。それで、日本にキリスト教があまり根付かなかったのは、聖書の訳があまり良くなくて、なんかピンとこないからっていうのがあったのではないか、ということだそうです。

P56
養老 : でも、不思議なのは、日本でも戦国時代はカトリックの信者が大勢いましたよね。
山浦 : キリシタン時代の宗教文書を見ると、翻訳が立派なんです。うまく訳せなくて、そのままポルトガル語で使っているところもありますけど。私がいちばん感動したのは、「愛する」という言葉ですね。これ、今の日本語の聖書では、全部、「愛」になっていますけど、ギリシャ語の原典では「フィレオー(好む)」と、「アガパオー(大切にする)」という二つの言葉が使い分けられているんです。それを、おそらく明治期に、中国語の聖書を参考にして翻訳した人が、全部まとめて「愛する」にしてしまった。キリシタン時代の聖書では、この二つをきちんと分けて使っています。当時の宣教師は、おそらくそういう感覚をしっかりもっていたんだと思います。
養老 : そのころは原典から訳すしかなかったから、誤解も少なかったんでしょうね。
マントラの話で良く出てくるのは、マントラを唱えるとある効力が出てくるわけですが、それが中国に輸入されたら、漢字訳されて音に漢字が当てられたんですね。それで、そうすると漢字に変わった瞬間に発音も微妙に変わってしまうんですね。その発音が微妙に変わった音を唱えると、マントラの発音で唱えるのの100万倍唱えないと同じ効力が出ない、とか、そういうのとなんか似ているなあ、と思いました。

だから、仏教でもお経はほとんど漢字になっていますが(入ってくるのに中国を経由したから)、密教だけはサンスクリット語の梵字をキープしているので、何段階も翻訳を経るときに生じるノイズはほかのより少ないのかなあ、などと思いました。




  


後編」に続
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