精神分析の先生と話していて、「じゃあ、抗うつ剤飲んでみる?」と言われた。そういうのを飲んでもおかしくないような状況もあるって意味なんだろう。でも、結局私は「No」と言うだろう。色々な人に「飲みながら治して行った方がいいんじゃないの?」と言われた事もあった。飲んで生活ができるようになる、飲まなければ生活が出来ない。生活ができない事から来るストレスがまた新たなものを生み出してしまう、そういう事は十分に考えられるのであった。薬を飲んだらその事を回避できるかもしれない。そういう選択肢も人生にはあるわけであるが。

私はどうしてもそれを選択しなかった。しかも、臨床心理士にかかったこともあるけど一回もそんなものは処方されなかった。先生によって違うのかもしれないけど、欲しいと言わなければ処方しないのかもしれない。

以前、親たちはとりあえず症状を消す事が大事って思ったみたいで「今はいい薬あるみたいよ」などとどこかの心療内科っぽいところを探してきていかせようとした。そんなものは耳も貸さなかった。当事者たる私はそういった検討をすることはとっくのとうの昔にやっているからである。冗談じゃないわけである。人の人生を勝手に薬漬けにされちゃたまらないわけである。いや、これは親を責めているのではなく、やはりたいていはそういう解決方法をまず選択しようとするのである。

その結果、私は自分は「薬を飲まない」って言うのが自分の哲学になっているんだな、と思った。いえ、頭痛がすれば頭痛薬くらいは飲んでしまうヘタレですが、明らかに心因性の症状のものに薬を飲む事がどんなに空しいかって思ってしまうからなんです。自分と言うのは球体だと思っている。その中に「悲しい」とか「腎臓」とか「眠たい」とか「リンパ液」とか「髪の毛」などの球体が一緒くたにはいっている。それがどんな順番で並んでいるかで、「悲しい」ってところに非常に負荷がかかっって大きくなったら、となりにある「消化液」っていう球体をぎゅうっと押して消化液の動きに影響を及ぼす。これは、すっごく単純なモデルだけど、実際はもっともっと複雑に関係しあっている。球体ってところを歯車としてもいい。だから、その歯車が順調にまわらなくなっているのに「消化液」ってところがおかしいからと言ってその動きだけスムーズにしたら、今度は残りの歯車がおかしいまま、「消化器」の歯車だけ動きが良くなってしまうので、今までおかしくなかった新しい歯車の動きがおかしくなって行く。そういう気がしてしまうのです。

とはいえ、抗うつ剤を否定しているわけではありません。前は百害あって一利無しと思っていたんだけど、自殺衝動がある場合はやはりかかせないのだと説明されてとても納得した。やはり生命に関わって来るならそれは見過ごせない。そういう必要性があるのだな、と理解したのです。

とはいえ、私の胸の痛みにはこう打つ剤は確実に効かないだろうな、、、空しい。。。

2005/12/18:くりおねさんよりご指摘あり。ありがとうございました。
臨床心理士は医師ではないので処方できませんとの事。
そうでした、私もすっかり忘れていました。私がかかった事があるのは医師免許をもっているそういう人だったんだと思います。