2003年02月

パパラギについて--続き--

パパラギの本を読んで以来色々考えている。
結局現代社会が成り立つ過程に存在したのはより文明を持つ民族が、そうでない民族を征服して行ったという歴史である。アイヌしかり、インカ帝国しかり、アボリジニーしかり、インディアンしかり。
先住民族と呼ばれるものは、文明化された民族に対して遙かに地球の環境にダメージを与えないライフスタイルだった。

文明化されてしまった人間達にも歴史を遡れば、今よりずっとずっと地球に優しい生き方をしていた時代があるはずである。日本で言えば、縄文時代、弥生時代からまあ極端な話江戸時代までは日本のきれいな自然が残っていた。日本の土着の世界観は八百万の神で自然を敬うものだったので、甚だしい自然破壊までは至らなかった。

自然を克服するべきものとして捉えた西洋の自然科学が発達してからは、自然は天然資源として利用され始め、地球への本格的なダメージが始まった。とはいえ、西洋人でも地球に優しい生き方をしていた時代があるはずである。魔女狩りや錬金術なんかが流行っていた中世なんかはまだ地球を破壊している感じはない。一体歴史上のどこが分岐点だったのか。

まあ、やはり工業が始まって大量生産が始まってからでしょうね・・・本格的な地球破壊は。それまでは、人手で生産する限りはたかがしれている。なぜ工業生産が必要になったのか、それは効率を上げるためですね。効率を追求すれば人々は働かなくてもものが手にできると考えたのだろう。ま、それはそうですね。

洗濯機があれば、洋服を洗濯する手間がだいぶ省ける。その空いた時間で何か他のことができるかもしれない。ところが、オーストラリアのアボリジニーの話。アボリジニーは狩猟民族なのですが、以下*の場合、労働時間は1日に10分なんです。それ以外の時間は洞窟に絵を描いたり、歌を歌ったりして暮らす。おお~。月に50時間残業している人がごろごろしている私の部署と比べたらなんというライフスタイルの違いだろう・・・。

*あるアボリジニのグループは、大人3~4人で、毎日50羽あまりのマグパイガチョウを捕ってくるといいますが、これは一人一羽に足りる量です。驚くことに、この作業に費やされる時間はなんと約10分だそうで、 残りの時間は宗教やドリーミングの伝授、壁画の制作などに回されるといいます。この様な時間配分はオーストラリアのアボリジニに限ったことではなく、 狩猟民族として存続しているアフリカのブッシュマンの労働時間も、週に約19時間だそうです。(http://eco.goo.ne.jp/australia/files/aborigine/2.htmlより引用)

文明は進んだけど、労働時間は遙かに増えた?私がなぜパパラギとか文明社会が地球を破壊する事がすごく気になっているかというと、文明が進めば進むほど人間が元来あった姿からかけ離れていく、それが嫌だなあ、と思っているのだと思う。

というのは、人々は頭脳労働が増えて、身体が退化していく。どんどん貧弱でひ弱な肉体になっていく。ひ弱な肉体を守るためにどんどん医療を発達させたり、体を守る服や道具が増えていく。萩尾望都のマンガでそういう方向に人間がどんどん進化していって、頭がどんどん大きくなって、肉体を必要としなくなって、精神体とでもいうようなものだけが残った世界の話があった。もし文明が進んだ結果がそれだとしたら、なんかいやだなあ。

たぶん、自分が余りにも頭だけ今までで生きてきてしまって、その事に無意識的に反発しようとしているような気もするんです。かといって、自然に憧れて、自然の中の生活をしても、いまいち虫とかに慣れてなくて、ぎゃーーってなってすごすごと都会へ戻ってくる可能性も大。(沖縄で経験済み)
さて、どうするか。

今週も・・・

今週もテコンドーに行かれないことが確定。辛い・・・本当は今日行くつもりで調整してたのですが、色々あって疲れたので家に帰ってきました。来週は絶対復活するつもり。
と言うことで、今の私には週に一回行くのを維持するのがいかに大変か、ってことですねーー。いや、別に仕事が死ぬほど忙しい訳じゃないのだけど、今は色々重なって厳しい季節なり。しかし、テコンドーは絶対やめませんぞ。

消費社会はね・・・

最近は大量生産のものをあまり好まなくなった。プラスチックでどんどん作っては捨てて新しいものに買い換える。そんな事しなくても長く持つような素材で作られたものを大事に使えばいいのに、と思う。でも、そんなことをしたら物が売れなくなって不景気になるから、駄目なんだ、どんどん使ってどんどん買わないと駄目なんだと世の中は言う。

そう言う話をある友人としていて、「私はそんなに消費してもしょうがない。いいことなんてそんなにない。」と言ったら、その友人は「じゃあ、みんながものを買わなければ経済が活性化しなくて、景気も上向きにならない。」と言われて、私のぼんやりした意見はそれ以上は全然説得力がなくてその友人の意見に反論することができなかったが。たとえ、非現実と言われてもパパラギ(昨日の日記参照)の本でサモアの酋長が言ったことに、解決方法があると思ったんです。でも、実現するとしたら全世界の価値観を根底から変えないといけないから、実現はとても難しい。(と言うか、ほとんど不可能?)

洋服もシーズンごとに流行が発表されて、その服が大量に作られて、みんなはおしゃれをしていると思ってその服を買うが、本当は消費するために作られたプログラムなのだ。最近は、街で女の子が並んで同じようなブーツを履いていたり同じようなファッションをしていると、昔は個性がないな、と思ったけど、今は消費させられているな、と思う。
そのシーズンの流行のために作られたブーツは材料もそんなに良くないので、次の年に履こうとすると、もうよれよれになっていたり、壊れてしまったりして履けない。だからまた人は次の流行のために作られた靴を買う。
競争社会というのも文明が作り出したものですね。入学試験や入社試験に落ちたものは敗者、お金持ちになれた人は勝者とか。

まあ、こんなことにぶちぶち言っている私のようなものは所詮競争社会では生き抜いて行かれないし、無意識的にそういう競争をすることが私はいやだったんだろうな。
さあ、こんな考えを持っている私はこれからの人生、一体どんなことをするのか、どんな選択をしていくのか自分でも興味があります。はたして東京を捨ててどこかに住みつくことが出来るのか。それとも東京で一生を終えるのか。

パパラギと現代社会への疑問

パパラギの話。
この本を本屋さんでふと立ち読みしてしまい、非常にショックを受けました。


どういう本かというと、
サモア島にキリスト教の宣教師が布教にやってきて、そのあと島の酋長は初めてヨーロッパを旅し、そこで見たことや感じたことを記した本です。しかし旅したのは1920年代。パパラギとは文明人をさした言葉のこと。時代的にはかなり古いのですが、そこに書かれている内容は全く色褪せていません。

これが初めて出版された本

パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930077/qid=1044274659/sr=1-
1/ref=sr_1_2_1/249-2450996-7691520

こっちは最近和田誠が絵を描いた絵本バージョン

絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930220/qid=1044274659/sr=1-
2/ref=sr_1_2_2/249-2450996-7691520

もう80年以上も前のこと、サモア島の酋長がヨーロッパの国々を旅しました。パパラギとは文明国と言われる人たちのこと。酋長ツイアビがヨーロッパで感じた文明の矛盾をユーモラスに語る。81年刊の絵本版。

この本を読んで、私はとてもショックを受けました。自分が今まで良いと思ってやってきたこと、良いと信じてきたことは実は別にそうじゃないかも知れない、という事に。
ここに旧版のパパラギの本文が載ってます。絵本の方がもっと読みやすい文章になっていますが、内容はばっちりわかります。
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/Papalagi.htm

この文の中では、今文明国に生きる人々が当然だと思い、日々そのために汗水垂らして生きていること、それは人類が進歩するためには当然のことであるという色々なことが実は必ずしもそうではないと言うことが指摘されているのです。

●所有権について
「おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思うか。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。私にはおまえたち(白人を指す)の目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする。たとえ小屋のてんじょうのいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。」
これがパパラギ(文明人)のやり方

それに対し、島ではものはみんなものであり、困っている人がいれば、その人に与える。誰かだけが沢山持ったりすることになんの意味があるでしょう。みんなで持てばいいではないか。

確かに、この考えがあれば、ある土地の領有権を主張したり、何もないところに誰かがやってきて突然ここは俺のものだという必要はなく、戦争は起こらない。はっきり言って、現代のビジネスの根底にあるのはこの所有権という意識ですよね。著作権とか、なんでもそうですが。

●自然について
日本だって昔は八百万の神と言って、自然はおかすべからざるものだった。こういった自然観を持っている民族は世界に沢山あるでしょう。

今だって私は都会の小さな箱(部屋)の中で、十分に外の空気も吸わずに光の箱(コンピューター)に何時間も同じ姿勢で向かって、箱の前に沢山並んでいる小さなボタン(キーボード)をパチパチたたき続けている。

最近は特に私は、環境破壊のことがとても気になります。
米軍基地を新しく作るために無人島を差し出そうとする、原子力発電所を作るために山を切り崩す。人々が愛着を持ち、街の美しい景観の象徴となっていたアパートを壊して、ピカピカのショッピングセンターを作る。
最近は東京都の再開発が進んで大きなビルやマンションがこれでもか、これでもかと建ちます。そして、奨励されるのは消費すること。でも、不景気は改善されず、リストラされたお父さんは自殺したりします。

私が今生きていている社会では、お金が社会の基本であり、資本主義で世の中が成り立っています。その中で、私がパパラギの本に感動したからと言って、一人だけ「私は人のものとか自分のものとか言うのはもうやめます。」と言ってもこの価値観の中ではやはりのたれ死にするだけなのですね。

精神病についても考えました。
果たしてノイローゼとか鬱病とかなんとか症候群とかはサモア島には存在するのだろうか。アメリカは精神医療の先進国なので、日本ではまだ認知されていない病名の解明が進んでいるというのは、逆に文明が進みすぎて、新しい精神病が生まれてしまっているだけなのじゃないか、とか。
新しい精神病を作り出すのが文明だとしたら、本当に分明とは人間にとっていいものなのか。

この本を読んで私のように大きなショックや影響を受けて、南の島に移住してしまった人もいるらしい。それはなんか話が違うなーと思うけど。
でも、私は日本という文明国に生まれて、東京という大都会で人生の大部分を生きてきました。最近は、コンクリートとプラスチックと騒音に囲まれたこの場所がいやだと思います。でも、大都会しか知らない私は他にしようがない。大自然しかないところに行って生きていく術を知らないのです。それが悲しくてしょうがない。

今はこの本を読んで、感銘した人たちの一部が田舎に引っ込んだりするだけで、世の中全体は変わったりしないでしょう。だけど、現代社会の様々な問題を解決するのはこういう方法しかないんじゃないか、って思うのです。

サモア島の酋長が言っていることは結構正しい。
よく民放でケニアのマサイ族みたいな全然分明と離れたところの人たちを東京に連れてきて、テレビを見せたり、色々なものを見せて、彼らが「わー、すごい!」と目を丸くするような番組をやっているが、あれを見ても彼らは、別に東京を見たからと言って「こっちの生活の方がいい!」と言って文明生活をうらやましがる(のを番組では期待しているのでしょうが、)と言うよりは、早く国に帰ってヤギに会いたいなーなんて思っているのがたいていなのである。

未開の部族とは勝手に私たちがそう言っているだけで、別に彼らはいやいや未開の部族をやっているわけではないのである。未開と言う言葉すら、「未だ開かれない」と言う意味で文明国の人間の勝手な価値観によって作られた言葉だ。

でも、私が仮に未開の部族の生活に憧れたとしても、既に文明をいやと言うほど、知ってしまっているわけで、その時点から未開の状態に移行するのは難しいよね。
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