パパラギの話。
この本を本屋さんでふと立ち読みしてしまい、非常にショックを受けました。
どういう本かというと、
サモア島にキリスト教の宣教師が布教にやってきて、そのあと島の酋長は初めてヨーロッパを旅し、そこで見たことや感じたことを記した本です。しかし旅したのは1920年代。パパラギとは文明人をさした言葉のこと。時代的にはかなり古いのですが、そこに書かれている内容は全く色褪せていません。
これが初めて出版された本
↓
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930077/qid=1044274659/sr=1-
1/ref=sr_1_2_1/249-2450996-7691520
こっちは最近和田誠が絵を描いた絵本バージョン
↓
絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930220/qid=1044274659/sr=1-
2/ref=sr_1_2_2/249-2450996-7691520
もう80年以上も前のこと、サモア島の酋長がヨーロッパの国々を旅しました。パパラギとは文明国と言われる人たちのこと。酋長ツイアビがヨーロッパで感じた文明の矛盾をユーモラスに語る。81年刊の絵本版。
この本を読んで、私はとてもショックを受けました。自分が今まで良いと思ってやってきたこと、良いと信じてきたことは実は別にそうじゃないかも知れない、という事に。
ここに旧版のパパラギの本文が載ってます。絵本の方がもっと読みやすい文章になっていますが、内容はばっちりわかります。
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/Papalagi.htm
この文の中では、今文明国に生きる人々が当然だと思い、日々そのために汗水垂らして生きていること、それは人類が進歩するためには当然のことであるという色々なことが実は必ずしもそうではないと言うことが指摘されているのです。
●所有権について
「おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思うか。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。私にはおまえたち(白人を指す)の目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする。たとえ小屋のてんじょうのいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。」
これがパパラギ(文明人)のやり方
それに対し、島ではものはみんなものであり、困っている人がいれば、その人に与える。誰かだけが沢山持ったりすることになんの意味があるでしょう。みんなで持てばいいではないか。
確かに、この考えがあれば、ある土地の領有権を主張したり、何もないところに誰かがやってきて突然ここは俺のものだという必要はなく、戦争は起こらない。はっきり言って、現代のビジネスの根底にあるのはこの所有権という意識ですよね。著作権とか、なんでもそうですが。
●自然について
日本だって昔は八百万の神と言って、自然はおかすべからざるものだった。こういった自然観を持っている民族は世界に沢山あるでしょう。
今だって私は都会の小さな箱(部屋)の中で、十分に外の空気も吸わずに光の箱(コンピューター)に何時間も同じ姿勢で向かって、箱の前に沢山並んでいる小さなボタン(キーボード)をパチパチたたき続けている。
最近は特に私は、環境破壊のことがとても気になります。
米軍基地を新しく作るために無人島を差し出そうとする、原子力発電所を作るために山を切り崩す。人々が愛着を持ち、街の美しい景観の象徴となっていたアパートを壊して、ピカピカのショッピングセンターを作る。
最近は東京都の再開発が進んで大きなビルやマンションがこれでもか、これでもかと建ちます。そして、奨励されるのは消費すること。でも、不景気は改善されず、リストラされたお父さんは自殺したりします。
私が今生きていている社会では、お金が社会の基本であり、資本主義で世の中が成り立っています。その中で、私がパパラギの本に感動したからと言って、一人だけ「私は人のものとか自分のものとか言うのはもうやめます。」と言ってもこの価値観の中ではやはりのたれ死にするだけなのですね。
精神病についても考えました。
果たしてノイローゼとか鬱病とかなんとか症候群とかはサモア島には存在するのだろうか。アメリカは精神医療の先進国なので、日本ではまだ認知されていない病名の解明が進んでいるというのは、逆に文明が進みすぎて、新しい精神病が生まれてしまっているだけなのじゃないか、とか。
新しい精神病を作り出すのが文明だとしたら、本当に分明とは人間にとっていいものなのか。
この本を読んで私のように大きなショックや影響を受けて、南の島に移住してしまった人もいるらしい。それはなんか話が違うなーと思うけど。
でも、私は日本という文明国に生まれて、東京という大都会で人生の大部分を生きてきました。最近は、コンクリートとプラスチックと騒音に囲まれたこの場所がいやだと思います。でも、大都会しか知らない私は他にしようがない。大自然しかないところに行って生きていく術を知らないのです。それが悲しくてしょうがない。
今はこの本を読んで、感銘した人たちの一部が田舎に引っ込んだりするだけで、世の中全体は変わったりしないでしょう。だけど、現代社会の様々な問題を解決するのはこういう方法しかないんじゃないか、って思うのです。
サモア島の酋長が言っていることは結構正しい。
よく民放でケニアのマサイ族みたいな全然分明と離れたところの人たちを東京に連れてきて、テレビを見せたり、色々なものを見せて、彼らが「わー、すごい!」と目を丸くするような番組をやっているが、あれを見ても彼らは、別に東京を見たからと言って「こっちの生活の方がいい!」と言って文明生活をうらやましがる(のを番組では期待しているのでしょうが、)と言うよりは、早く国に帰ってヤギに会いたいなーなんて思っているのがたいていなのである。
未開の部族とは勝手に私たちがそう言っているだけで、別に彼らはいやいや未開の部族をやっているわけではないのである。未開と言う言葉すら、「未だ開かれない」と言う意味で文明国の人間の勝手な価値観によって作られた言葉だ。
でも、私が仮に未開の部族の生活に憧れたとしても、既に文明をいやと言うほど、知ってしまっているわけで、その時点から未開の状態に移行するのは難しいよね。
この本を本屋さんでふと立ち読みしてしまい、非常にショックを受けました。
どういう本かというと、
サモア島にキリスト教の宣教師が布教にやってきて、そのあと島の酋長は初めてヨーロッパを旅し、そこで見たことや感じたことを記した本です。しかし旅したのは1920年代。パパラギとは文明人をさした言葉のこと。時代的にはかなり古いのですが、そこに書かれている内容は全く色褪せていません。
これが初めて出版された本
↓
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930077/qid=1044274659/sr=1-
1/ref=sr_1_2_1/249-2450996-7691520
こっちは最近和田誠が絵を描いた絵本バージョン
↓
絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4651930220/qid=1044274659/sr=1-
2/ref=sr_1_2_2/249-2450996-7691520
もう80年以上も前のこと、サモア島の酋長がヨーロッパの国々を旅しました。パパラギとは文明国と言われる人たちのこと。酋長ツイアビがヨーロッパで感じた文明の矛盾をユーモラスに語る。81年刊の絵本版。
この本を読んで、私はとてもショックを受けました。自分が今まで良いと思ってやってきたこと、良いと信じてきたことは実は別にそうじゃないかも知れない、という事に。
ここに旧版のパパラギの本文が載ってます。絵本の方がもっと読みやすい文章になっていますが、内容はばっちりわかります。
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/Papalagi.htm
この文の中では、今文明国に生きる人々が当然だと思い、日々そのために汗水垂らして生きていること、それは人類が進歩するためには当然のことであるという色々なことが実は必ずしもそうではないと言うことが指摘されているのです。
●所有権について
「おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思うか。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。私にはおまえたち(白人を指す)の目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする。たとえ小屋のてんじょうのいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。」
これがパパラギ(文明人)のやり方
それに対し、島ではものはみんなものであり、困っている人がいれば、その人に与える。誰かだけが沢山持ったりすることになんの意味があるでしょう。みんなで持てばいいではないか。
確かに、この考えがあれば、ある土地の領有権を主張したり、何もないところに誰かがやってきて突然ここは俺のものだという必要はなく、戦争は起こらない。はっきり言って、現代のビジネスの根底にあるのはこの所有権という意識ですよね。著作権とか、なんでもそうですが。
●自然について
日本だって昔は八百万の神と言って、自然はおかすべからざるものだった。こういった自然観を持っている民族は世界に沢山あるでしょう。
今だって私は都会の小さな箱(部屋)の中で、十分に外の空気も吸わずに光の箱(コンピューター)に何時間も同じ姿勢で向かって、箱の前に沢山並んでいる小さなボタン(キーボード)をパチパチたたき続けている。
最近は特に私は、環境破壊のことがとても気になります。
米軍基地を新しく作るために無人島を差し出そうとする、原子力発電所を作るために山を切り崩す。人々が愛着を持ち、街の美しい景観の象徴となっていたアパートを壊して、ピカピカのショッピングセンターを作る。
最近は東京都の再開発が進んで大きなビルやマンションがこれでもか、これでもかと建ちます。そして、奨励されるのは消費すること。でも、不景気は改善されず、リストラされたお父さんは自殺したりします。
私が今生きていている社会では、お金が社会の基本であり、資本主義で世の中が成り立っています。その中で、私がパパラギの本に感動したからと言って、一人だけ「私は人のものとか自分のものとか言うのはもうやめます。」と言ってもこの価値観の中ではやはりのたれ死にするだけなのですね。
精神病についても考えました。
果たしてノイローゼとか鬱病とかなんとか症候群とかはサモア島には存在するのだろうか。アメリカは精神医療の先進国なので、日本ではまだ認知されていない病名の解明が進んでいるというのは、逆に文明が進みすぎて、新しい精神病が生まれてしまっているだけなのじゃないか、とか。
新しい精神病を作り出すのが文明だとしたら、本当に分明とは人間にとっていいものなのか。
この本を読んで私のように大きなショックや影響を受けて、南の島に移住してしまった人もいるらしい。それはなんか話が違うなーと思うけど。
でも、私は日本という文明国に生まれて、東京という大都会で人生の大部分を生きてきました。最近は、コンクリートとプラスチックと騒音に囲まれたこの場所がいやだと思います。でも、大都会しか知らない私は他にしようがない。大自然しかないところに行って生きていく術を知らないのです。それが悲しくてしょうがない。
今はこの本を読んで、感銘した人たちの一部が田舎に引っ込んだりするだけで、世の中全体は変わったりしないでしょう。だけど、現代社会の様々な問題を解決するのはこういう方法しかないんじゃないか、って思うのです。
サモア島の酋長が言っていることは結構正しい。
よく民放でケニアのマサイ族みたいな全然分明と離れたところの人たちを東京に連れてきて、テレビを見せたり、色々なものを見せて、彼らが「わー、すごい!」と目を丸くするような番組をやっているが、あれを見ても彼らは、別に東京を見たからと言って「こっちの生活の方がいい!」と言って文明生活をうらやましがる(のを番組では期待しているのでしょうが、)と言うよりは、早く国に帰ってヤギに会いたいなーなんて思っているのがたいていなのである。
未開の部族とは勝手に私たちがそう言っているだけで、別に彼らはいやいや未開の部族をやっているわけではないのである。未開と言う言葉すら、「未だ開かれない」と言う意味で文明国の人間の勝手な価値観によって作られた言葉だ。
でも、私が仮に未開の部族の生活に憧れたとしても、既に文明をいやと言うほど、知ってしまっているわけで、その時点から未開の状態に移行するのは難しいよね。