まあ、書評っていうほと大げさなものでもないんですけどね。
いわゆる青山圭秀氏が書いた「アガスティアの葉」の反論本です。
アガスティアの葉とは何千年もの昔インドにアガスティアという名の聖人がいて、その人が葉っぱにタミール語で色々な人の前世から今世、そして来世のことを予言して書き記したというものです。青山さん自身がそれをインドまではるばる見に行って、その顛末を本にして日本に紹介してから「それはほんまかいな?!」ということで大反響が起こったという本です。
葉っぱには古代タミール語で書かれているらしい。それを読み取る専門の職業の人(ナディアリーダーという)がいてその人に読んでもらうらしい。葉っぱがたくさんしまってある倉庫があって、その中から自分について書かれている葉を探し出すのです。探し出す方法としては「あなたの名年齢は30歳以上ですか?」とか「あなたの名前の最初の音ははア行(とは言わないと思うけど、音のレベルの話)ですか?」などに「yes」「No」などで答えて行くと、それに応じて葉っぱを持ってきてくれると言うものです。
そこで、その本を読んで自分も自分の未来とかが書き記してある葉っぱがあるならぜひ見に行ってみたい、ということで青山さんの本をきっかけにわざわざインドまで渡った日本人が沢山いるらしい。そして、そういった日本人が押しかければどうなるか、インドですから(というとちょとと語弊があるが)当然日本人をカモにしてやろうと言う人たちも出てくるだろうし、偽者も当然出てくるだろう。
それで、この本の著者のパンタ笛吹氏と真弓香氏は青山さんの本をきっかけにアガスティアの葉を探しにインドまで行き、青山さんが葉を読んでもらったと言うナディアリーダーのところへわざわざ行って読んでもらったら、なんか怪しいので、試しにおとり捜査として全然架空の名前をプロフィールでもう一度試したら「葉が出てきました」と言われて「やっぱアガスティアの葉なんて嘘だったんだよ!」ということが書かれている本です。
ハッキリ言って青山正秀ファンからしたら「あんなひどいことを書いて信じられない!!!」って本なわけですが、 きむたけさんの本と同様、私はアンチ本も読むことにしているので(といいながらアンチ木村本は読んでません。だって内容が難しいから(笑)。)、この本を読んでみることにしたのです。
青山圭秀の本が好きだ!というのは、ひとときの木村剛を好きだ!というのが少々憚られた時期があったというのとちょっと似ているところがある。青山さんはその業界では色々に言われているし、青山さんが書く本が精神世界というジャンルに区分けされてしまうだけになかなか微妙なところがあります。まあ、しかし私はそういう事があるというのも余り知らなかったし、どちらかと言うと作品本位主義なので、この人は素晴らしい本を書いていると自分が判断すればそれで良かったのですけどね。ま、あとはできれば私は実際にその人物に会って(講演会にでもいけば少なくとも会える)、その人となりを自分で観察して考えれば良いことだと思っています。
グル巡り
をする人たちがこの世にいるというのを初めて知った。ちなみにこの記事を最初にどこのカテゴリに入れようかと思った時、今まではこれ系の話題は「愛・オーラ・縁起のカラクリ」というのに分類してきたのですが(っていうかこのカテゴリーの名前も「おいおい」と言われそうだけど、やっぱり自分の中ではどうしてもこういう表現にしかならないのです。)、この書評についてはどうしてもこのカテゴリに入れるにはふさわしくなく、新たに「スピリチュアル」というカテゴリを作りました。
どうしてか、というと「愛・オーラ・縁起のカラクリ」に書いてあることは世の中で言われるいわゆるスピリチュアル系ネタなのですが、スピリチュアルにはそれそのものを目的としているものも沢山あるんだなというのをこの本を読んで感じたので、そう言ったものをスピリチュアルと分類することにします。
で、タイトルに戻ってグル巡りとは何かと言うと、とにかく有名なグルのところへ行ってはそこでトランス体験とか瞑想とかをして「ああーー、どこそこでの瞑想は最高の体験だったね」という事を愛好する人たちがいると言うことです。ふーん、そう言う人たちがいるんだーっていうのが私はこの本を読んで初めて知ったことでした。
瞑想というのはそれ自体が目的なのではなく、瞑想をとおして自分の人生を静かに考えたり、悩みを昇華させて社会的活動を改善したりするための手段だと思っていたのですが、この場合は瞑想を体験する事自体が目的で、なんというか「この間の○○のライブは最高だったね!」というのにどちらかと言うと似ているのですね。そのためにはインドやアメリカその他色々なところにいるグルに会いに行く。うーん、否定はしないけど、奇特な方々ですね。
サイババももちろんそうしたグルのうちの1人と言うことになります。そして、ツいにサイババの姿を拝めた時はすごいエネルギーを感じたりするのだそうだ。それで心打たれて、サイババはすごい!という話になる。これは、でも私は分かる。別にサイババじゃなくても、うわーーエネルギーがすごいなーって言う人はいますよね。有名人なんかは結構こう言う率が高いのではないかと思う。
まあ、とりあえずこの本の著者の1人であるバンタ笛吹氏はこう言うことを今まで色々なさってきた方のようです。それで、こういったグル巡りとかヨガとかなんとかメディテーションとかっていうのはかなりヒッピーの文化がベースにあったりするようだ。とは言え、ご本人は根無し草のヒッピーではなくアメリカの方に寿司レストランを経営したりと言うれっきとした事業家である。
アガスティアの葉の真偽について
私も割と信じやすいので、この本を読むと「あー、やっぱりアガスティアの葉は嘘だったのかなー」などと思えてきたりする。ただし、真偽の問題ではなく、作品としての品格とか格調とか、探求の深さという点において言えば青山圭秀氏の「アガスティアの葉」には遠く足下にも及ばない。まあ、アンチ本は得てしてそんなものである。アンチする対象を凌駕するというのはなかなかできることではないのである。
パンタ笛吹氏と真弓香氏がいろいろな事をしてアガスティアの葉が偽物であるという実証を行っているのだが、一点だけ解明できてないところがある。それは、青山さんが自分のアガスティアの葉を読んでもらった同じナディアリーダーのところへ行って葉っぱを読んでもらうのですが、青山さんの時はそのリーダーは青山さんに「お代はいらないよ」と言ったのに対し、パンタ笛吹氏に対しては正規料金みたいなものを要求した上に、あなたのカルマを浄化するにはこれこれの儀式を行わなければならない。それは私たちが代行してやってあげる、そのお代はいくらいくら、という対価を要求したと言うことである。この儀式の代金が日本円にして何万という金額である。インドで言ったらそれは破格である。この言葉には非常に商業主義的なニュアンスを感じるし、そのあとで架空のプロフィールを作って葉っぱを探してもらった時も同様な儀式をするための料金を請求されているので、そこまでくると本当にだまされているんだなあ、という感じが明らかになる。
では、なぜこの同一人物が青山さんには「お代は結構です」と言い、パンタ笛吹氏には儀式の料金を請求したのか。そこがうやむやのままこの本は終わっているのである。ここを解明できないと、反論本としては説得力がかなり落ちてしまうのではないかと思う。
例えば、ナディアリーダーがアガスティアの葉を探しにきたと言う人の人格を見抜いて違う対応をしたのではないか、とか、青山さんが見に行った当時はここまで人が押し寄せていなかったので、割と良心的にやっていたが、お金になると分かったので商業主義的な対応にすることにしたとか、その辺まで本当は突っ込んで調べてほしかったものである。いや、仮にこの反論本を青山さんが書いたとしたら当然ながらその辺まで突っ込んで探究しているはずである。その辺が惜しいなと思う。
その他、文中に色々に描写される細かなこと一つ一つをとっても、青山氏の探求力には遠く及ばない描写になっていてその辺から本全体の印象が薄っぺらなものになってしまっていることは否めない。しかし、そうは言っても青山さんの本をたずさえてインドへ行ってボラれて帰ってきた日本人が山のようにいるのは事実だろうから、このような本を書くことの意味は全くないとは思わないですが。
もう一つの疑問
この本はパンタ笛吹氏と真弓香氏というアメリカ在住の占星術のプロの方が二人でインドへ行った話であり、事の顛末も同じ旅を二人のそれぞれから見た視点で交互に章になって構成されている。それで、私が漠然と違和感を感じたのはそれほど二人の文章のオーラが異なっていないって所なのですね。作品主義の私から言わせてもらうと、書く人で文体と言うのはかなり異なってくるのである。ましてや著者の片方は男性でバックグラウンドがヒッピーで音楽もたしなみ事業家をしている人と、もう片方は女性の占星術師となれば人格やものの感じ方はかなり異なるところがあるはずである。そして当然文章にその違いが出るのでは?と私は思うのだけど、そこまでドラスティックに異なる二人が書いているなーという印象を受けないのですね。いえ、別にゴーストライターが書いてるんじゃないの???などと言うことが言いたいのではなくて、違う人格の人間が文章を書いているのにすごく印象が似た文面だなーと感じただけなんです。
まあ、お二人は別に分筆をなりわいにしている方々ではないのでしょうから、文体に著しい個性があるって事でもないのかもしれませんけど。普通は言葉の選び方とか、よく使いがちな言い回しとか出てきてその人らしさがあるんですよね。一つの記事ならまだしも一冊の本なら尚更そういう傾向が出てくるように思うのですが、そういった印象は受けませんでした。ま、それだけです。
青山さんとかはやっぱりそういう意味での個性は当然ながらあると思います。話を聞いていてもそう思います。以前、何か青山さんのセミナーを小一時間聞いて(聖者系の話だったと思う。)、そのあと友達と電話で話していたらその日聞いた青山さんの口癖が見事に移っていてその友達と話しながら「あー、口癖が移っているなー」とか思った日もありましたから。
結論
私の回りにもアガスティアの葉を見に行きたい!と言っている人もいます。私はもしこの葉が本物だとしてもそれほど見に行きたいとは思わないけど。ただ、何歳で死ぬとかってそこでわかったら恐いだろうなという事ではなく、何歳で死ぬとかってことが決まっていてそれを変えることができないなら、それはそれでもう見に行く必要はないなと言うことです。そして、これが偽物ならそれはそれで手の込んだことを考えたものだな、と感心します。アガスティアという聖人はいますので、うまいこと歴史的事実を巧妙にくっつけたものだな、とか。
この本の読後感はそんなところです。
いわゆる青山圭秀氏が書いた「アガスティアの葉」の反論本です。
アガスティアの葉とは何千年もの昔インドにアガスティアという名の聖人がいて、その人が葉っぱにタミール語で色々な人の前世から今世、そして来世のことを予言して書き記したというものです。青山さん自身がそれをインドまではるばる見に行って、その顛末を本にして日本に紹介してから「それはほんまかいな?!」ということで大反響が起こったという本です。
葉っぱには古代タミール語で書かれているらしい。それを読み取る専門の職業の人(ナディアリーダーという)がいてその人に読んでもらうらしい。葉っぱがたくさんしまってある倉庫があって、その中から自分について書かれている葉を探し出すのです。探し出す方法としては「あなたの名年齢は30歳以上ですか?」とか「あなたの名前の最初の音ははア行(とは言わないと思うけど、音のレベルの話)ですか?」などに「yes」「No」などで答えて行くと、それに応じて葉っぱを持ってきてくれると言うものです。
そこで、その本を読んで自分も自分の未来とかが書き記してある葉っぱがあるならぜひ見に行ってみたい、ということで青山さんの本をきっかけにわざわざインドまで渡った日本人が沢山いるらしい。そして、そういった日本人が押しかければどうなるか、インドですから(というとちょとと語弊があるが)当然日本人をカモにしてやろうと言う人たちも出てくるだろうし、偽者も当然出てくるだろう。
それで、この本の著者のパンタ笛吹氏と真弓香氏は青山さんの本をきっかけにアガスティアの葉を探しにインドまで行き、青山さんが葉を読んでもらったと言うナディアリーダーのところへわざわざ行って読んでもらったら、なんか怪しいので、試しにおとり捜査として全然架空の名前をプロフィールでもう一度試したら「葉が出てきました」と言われて「やっぱアガスティアの葉なんて嘘だったんだよ!」ということが書かれている本です。
ハッキリ言って青山正秀ファンからしたら「あんなひどいことを書いて信じられない!!!」って本なわけですが、 きむたけさんの本と同様、私はアンチ本も読むことにしているので(といいながらアンチ木村本は読んでません。だって内容が難しいから(笑)。)、この本を読んでみることにしたのです。
青山圭秀の本が好きだ!というのは、ひとときの木村剛を好きだ!というのが少々憚られた時期があったというのとちょっと似ているところがある。青山さんはその業界では色々に言われているし、青山さんが書く本が精神世界というジャンルに区分けされてしまうだけになかなか微妙なところがあります。まあ、しかし私はそういう事があるというのも余り知らなかったし、どちらかと言うと作品本位主義なので、この人は素晴らしい本を書いていると自分が判断すればそれで良かったのですけどね。ま、あとはできれば私は実際にその人物に会って(講演会にでもいけば少なくとも会える)、その人となりを自分で観察して考えれば良いことだと思っています。
グル巡り
をする人たちがこの世にいるというのを初めて知った。ちなみにこの記事を最初にどこのカテゴリに入れようかと思った時、今まではこれ系の話題は「愛・オーラ・縁起のカラクリ」というのに分類してきたのですが(っていうかこのカテゴリーの名前も「おいおい」と言われそうだけど、やっぱり自分の中ではどうしてもこういう表現にしかならないのです。)、この書評についてはどうしてもこのカテゴリに入れるにはふさわしくなく、新たに「スピリチュアル」というカテゴリを作りました。
どうしてか、というと「愛・オーラ・縁起のカラクリ」に書いてあることは世の中で言われるいわゆるスピリチュアル系ネタなのですが、スピリチュアルにはそれそのものを目的としているものも沢山あるんだなというのをこの本を読んで感じたので、そう言ったものをスピリチュアルと分類することにします。
で、タイトルに戻ってグル巡りとは何かと言うと、とにかく有名なグルのところへ行ってはそこでトランス体験とか瞑想とかをして「ああーー、どこそこでの瞑想は最高の体験だったね」という事を愛好する人たちがいると言うことです。ふーん、そう言う人たちがいるんだーっていうのが私はこの本を読んで初めて知ったことでした。
瞑想というのはそれ自体が目的なのではなく、瞑想をとおして自分の人生を静かに考えたり、悩みを昇華させて社会的活動を改善したりするための手段だと思っていたのですが、この場合は瞑想を体験する事自体が目的で、なんというか「この間の○○のライブは最高だったね!」というのにどちらかと言うと似ているのですね。そのためにはインドやアメリカその他色々なところにいるグルに会いに行く。うーん、否定はしないけど、奇特な方々ですね。
サイババももちろんそうしたグルのうちの1人と言うことになります。そして、ツいにサイババの姿を拝めた時はすごいエネルギーを感じたりするのだそうだ。それで心打たれて、サイババはすごい!という話になる。これは、でも私は分かる。別にサイババじゃなくても、うわーーエネルギーがすごいなーって言う人はいますよね。有名人なんかは結構こう言う率が高いのではないかと思う。
まあ、とりあえずこの本の著者の1人であるバンタ笛吹氏はこう言うことを今まで色々なさってきた方のようです。それで、こういったグル巡りとかヨガとかなんとかメディテーションとかっていうのはかなりヒッピーの文化がベースにあったりするようだ。とは言え、ご本人は根無し草のヒッピーではなくアメリカの方に寿司レストランを経営したりと言うれっきとした事業家である。
アガスティアの葉の真偽について
私も割と信じやすいので、この本を読むと「あー、やっぱりアガスティアの葉は嘘だったのかなー」などと思えてきたりする。ただし、真偽の問題ではなく、作品としての品格とか格調とか、探求の深さという点において言えば青山圭秀氏の「アガスティアの葉」には遠く足下にも及ばない。まあ、アンチ本は得てしてそんなものである。アンチする対象を凌駕するというのはなかなかできることではないのである。
パンタ笛吹氏と真弓香氏がいろいろな事をしてアガスティアの葉が偽物であるという実証を行っているのだが、一点だけ解明できてないところがある。それは、青山さんが自分のアガスティアの葉を読んでもらった同じナディアリーダーのところへ行って葉っぱを読んでもらうのですが、青山さんの時はそのリーダーは青山さんに「お代はいらないよ」と言ったのに対し、パンタ笛吹氏に対しては正規料金みたいなものを要求した上に、あなたのカルマを浄化するにはこれこれの儀式を行わなければならない。それは私たちが代行してやってあげる、そのお代はいくらいくら、という対価を要求したと言うことである。この儀式の代金が日本円にして何万という金額である。インドで言ったらそれは破格である。この言葉には非常に商業主義的なニュアンスを感じるし、そのあとで架空のプロフィールを作って葉っぱを探してもらった時も同様な儀式をするための料金を請求されているので、そこまでくると本当にだまされているんだなあ、という感じが明らかになる。
では、なぜこの同一人物が青山さんには「お代は結構です」と言い、パンタ笛吹氏には儀式の料金を請求したのか。そこがうやむやのままこの本は終わっているのである。ここを解明できないと、反論本としては説得力がかなり落ちてしまうのではないかと思う。
例えば、ナディアリーダーがアガスティアの葉を探しにきたと言う人の人格を見抜いて違う対応をしたのではないか、とか、青山さんが見に行った当時はここまで人が押し寄せていなかったので、割と良心的にやっていたが、お金になると分かったので商業主義的な対応にすることにしたとか、その辺まで本当は突っ込んで調べてほしかったものである。いや、仮にこの反論本を青山さんが書いたとしたら当然ながらその辺まで突っ込んで探究しているはずである。その辺が惜しいなと思う。
その他、文中に色々に描写される細かなこと一つ一つをとっても、青山氏の探求力には遠く及ばない描写になっていてその辺から本全体の印象が薄っぺらなものになってしまっていることは否めない。しかし、そうは言っても青山さんの本をたずさえてインドへ行ってボラれて帰ってきた日本人が山のようにいるのは事実だろうから、このような本を書くことの意味は全くないとは思わないですが。
もう一つの疑問
この本はパンタ笛吹氏と真弓香氏というアメリカ在住の占星術のプロの方が二人でインドへ行った話であり、事の顛末も同じ旅を二人のそれぞれから見た視点で交互に章になって構成されている。それで、私が漠然と違和感を感じたのはそれほど二人の文章のオーラが異なっていないって所なのですね。作品主義の私から言わせてもらうと、書く人で文体と言うのはかなり異なってくるのである。ましてや著者の片方は男性でバックグラウンドがヒッピーで音楽もたしなみ事業家をしている人と、もう片方は女性の占星術師となれば人格やものの感じ方はかなり異なるところがあるはずである。そして当然文章にその違いが出るのでは?と私は思うのだけど、そこまでドラスティックに異なる二人が書いているなーという印象を受けないのですね。いえ、別にゴーストライターが書いてるんじゃないの???などと言うことが言いたいのではなくて、違う人格の人間が文章を書いているのにすごく印象が似た文面だなーと感じただけなんです。
まあ、お二人は別に分筆をなりわいにしている方々ではないのでしょうから、文体に著しい個性があるって事でもないのかもしれませんけど。普通は言葉の選び方とか、よく使いがちな言い回しとか出てきてその人らしさがあるんですよね。一つの記事ならまだしも一冊の本なら尚更そういう傾向が出てくるように思うのですが、そういった印象は受けませんでした。ま、それだけです。
青山さんとかはやっぱりそういう意味での個性は当然ながらあると思います。話を聞いていてもそう思います。以前、何か青山さんのセミナーを小一時間聞いて(聖者系の話だったと思う。)、そのあと友達と電話で話していたらその日聞いた青山さんの口癖が見事に移っていてその友達と話しながら「あー、口癖が移っているなー」とか思った日もありましたから。
結論
私の回りにもアガスティアの葉を見に行きたい!と言っている人もいます。私はもしこの葉が本物だとしてもそれほど見に行きたいとは思わないけど。ただ、何歳で死ぬとかってそこでわかったら恐いだろうなという事ではなく、何歳で死ぬとかってことが決まっていてそれを変えることができないなら、それはそれでもう見に行く必要はないなと言うことです。そして、これが偽物ならそれはそれで手の込んだことを考えたものだな、と感心します。アガスティアという聖人はいますので、うまいこと歴史的事実を巧妙にくっつけたものだな、とか。
この本の読後感はそんなところです。