愛・運・オーラ・縁起のカラクリ

祈りの力

祈るということがどの程度効果があるかというのは、誰も測定できない。

ややもすると、気のせいとか、気持ちの問題くらいな扱いになる。

ということは、祈ることは全くなんの効果、力がないのだろうか。もし、そうだったら今までに存在した古今東西の修道院や寺院の人たちが祈ってきた日々が全くの無意味なものであった、ということになってしまう。

さすがにそれはないだろう。
(というか、そうじゃない、ということじゃないとその人たちが浮ばれないよな、、、)

とすると、祈りには力があることになる。

そう考えると、祈るということの重さというのも感じられてくるのである。とても不思議なことだけど。

スピリチュアル系の解釈でいうと、祈るというのは念を重ねて行くということなんでしょうね。念が世の中に何らかの力を及ぼすというのは往々にしてあるから、そう考えるとすんなりと納得がいくかもしれませんね。

 

 

プチシンクロ

また共時性というかシンクロニシティめいた事があったので、書いてみます。いや、よく考えたら日常生活でこの程度のことは割と頻繁に起こるのだけど、やっぱり「人生には偶然なんてない!全て必然なんだ!」とかってまでは確信が持てるほどでもなく、それでも、「うーん、やっぱりすごいかな」というのはありますね。

●ある人と日舞の話をしていて、お勧めの舞台のビデオがあるわよ、って言うので見ようとしていたんですね。それで、その人はたくさんのビデオの中からどれどれ、、と探して一つのカセットを持ってきた。そうしたら、ケースのデザインがあれ?これって日比野克彦の絵チぽいなあ、と思って良く見たらはしっこの方に「Hibino」というサインが入っていたので、「ああ、このビデオのケースは日比野克彦のデザインですねえ」「あら、ほんとだわ!今まで全然気づかなかったわ。」などと話していた。それで、そのビデオの中のどの部分に見せたい舞台が入っているか分からなかったので、適当に早送りか巻き戻しをして再生をした。

そうしたらですねー、急にその画面に日比野克彦が写ったんですよーー。なんか3チャンネルで芸術作品の特集をしていてゲストか解説で出ていたんですね。しかもその映像も軽く10年以上は前って感じのなんですが。その人は日比野克彦が出演している番組を取った記憶など全然なかったらしい。というか見たい番組の前の番組が少し録画されててそこに写ってたってことなんですが。

いやー、なんかびっくりしました。そうピンポイントで来るかって感じで。

●この間は同居人が数日家を留守にしていた。そして、私は外出をして帰ってきた。3分後くらいにピンポーンと鳴った。また勧誘か何かか?と思ったら同居人さんではないですか。鍵を忘れ旅に出かけてしまったとのこと。しかも、私に電話もしたりしたのだけど、私は余裕で携帯を置いて出かけていたのでそんなこともつゆ知らず。もし、私がそのまま外出して帰る時間が遅くなっていたらその同居人さんは閉め出しを食らっていたところでした。おそろしや。私もいいタイミングで帰ってきたなあ、と思いました。

人の気配が消えるとき

先日久しぶりに妹に会ったので、またいろいろ話をしてみた。

妹はまたもや敏感体質なんですよ。まあ、アーチストですしね。それくらいのことはあるかもしれません。若い頃(って一応今もそれなりに若いけど)は霊感もあったんですよね。妹と自転車で散歩していて「ああっ、この辺から何か感じる!」とかって言うので近寄っていったらなにやら曰くつきありげな祠があったとか、浅草のどこそこのお寺に行ったとき、境内に入ろうとしたら結界が張られていて入れなかったとか(じゃあ、君は禍々しいものってことだったの??)、まあそこそこ体験がある人なんですよ。

で、今回話して初耳だなーと思ったのは人が寝付く瞬間がわかるとのこと。って、いうのは隣の部屋とか階下にいる人のことですよ。起きているときは気配があるんだけど、眠りに落ちる瞬間にすっと気配が消えるらしいです。なんかそう言われるとわからなくもないなーという感じはありますが、そこまで意識してそんなことを考えたことなかったし、私はそんなことわからないと思います。

ただ、今引越しして隣の部屋にほかの人がいるので、その挙動はなんとなくわかるなーっていうのはありますよね。(別に聞き耳立てているわけではありませんよ!(笑))。ま、それは別に音がするからって程度だとは思いますが。

で、「眠りに落ちる時に気配が消える」って言うのが非常に面白いですね。江原啓之さん的には、人は眠ったら魂が抜け出て魂の世界みたいなところに行って精神的パワーを充電したり、時空を超えた人と会ったりしているらしい。で、夢を見たっていうのはその時の事だったりするらしい。

とまれ、その説はさておき、「眠ると気配が消える」という事実はなんとなく上記のことが仮に起こっているとするなら、魂が体から抜けてその魂の世界とかいうところに出かけている。体に魂がいないときは気配が消える、ということだったら面白いな、と思ったのです。

忍者なんかは起きてるけど、気配を消せるわけですよね。そうすると、それは、どうやってるんでしょうね。息を潜めたりするだけじゃ不十分に思われますが。たくさん人がいるなかで、存在感のない人、ある人がいますよね。こういうのも気配と関係あるんでしょうか。まあ、でもこの場合はその人の体から出ているパワーがほかの人に比べてそれほど強くないということなんでしょうかね(じゃあ、パワー放出量を強めたり弱めたりできるんでしょうかね。うーん。)。

話はどんどんずれていきますが、最近は北斗の拳のケンシロウとかドラゴンボールがやっていたことって、割とほんとのことなんだなーと思いました。あんなレベルまでできる人はそうそういないとは思いますが、もっと微弱なレベルではみんな日常的にやっているんだなーと思いました。

まあ、とにかく、今日は「人は眠ると気配が消える」ということを勉強いたしました。

瞑想ブログ

瞑想ブログというのを始めてみます。
また、この人は危ない世界へいくんじゃないか、、、って思う人もいるかもしれませんが。

瞑想を始めてその状況を日々つづるだけのブログです。さて続くでしょうか。

瞑想って言うと、禅だとかヨガだとかチベットだとか密教だとかっていうなにやら精神世界の感じがしてきますね。しかし、私自身はあんまり精神世界関連には興味はないんですよ。実は。別にサイババも偉いなーと思うけど、帰依しようとかそういうのはありません。どこかの宗教に興味があるわけでもありません。興味を持つとすれば文化・歴史的側面からのアプローチでしょうね。

じゃあ、なんで瞑想かというと、ただ、ちょっとほんとに瞑想でもしないと普通の生活が送れないのかな、、、という感じのかなり実用的な話です。腰が痛いから指圧を受けに行きたいとか、と同じレベルの話です。別に瞑想して神様からのメッセージ聞けたらいいなーとかっていうのは特にないです。どちらかというとダイエットに効けばいいかなーとは思いますが(笑)。

ということで、これがURLです。

Hiroetteの瞑想ブログ
http://www.myprofile.ne.jp/meisou+blog

聖人は遺体が腐らないらしい - 聖地ルルドと聖ベルナデッタ - 

先日青山圭秀さんのお話を聞きに行きました。
まあ、色々な面白い話があったのですが、びっくり仰天!したのがいわゆる奇跡を起こすルルドの泉と聖ベルナデッタの話です。

1858年、フランスのピレネー山麓のルルドの洞窟で少女ベルナデッタは聖母マリアを目撃します。で、聖母マリアのお告げに従って地面を掘ったら泉がわいて、その泉の水を飲んだ人が病気が治ったり、けがが治ったりするという奇跡がいっぱい起こったところです。超常現象としては一流のブランド品らしい。まあ、カトリックの場合は法王庁がしっかり調査してお墨付きを与えたりするので、どこかのトンデモ情報とは一線を画するものであります。

それで、聖母マリアの目撃というのは世界各地にあります。これについてはここに書いてあります。で、少女ベルナデッタはまあ、そのあと色々社会貢献をしまして(かなり端折って言ってますが)、そののちカトリックの総本山であるバチカンの法王庁に聖女という認定を受けます。

いっときますけどね、聖女っていう称号を得るのは並大抵な事じゃないですよ。何しろ、聖女って言うくらいですから、聖母マリアと同等のレベルの徳の高さ、愛の多さ、広さ、深さが客観的に認定されなければいけないんですから。弁護士とか、医師免許とかMBAとか取ってる難易度とわけが違いますよ。

で、ですね、こういう方々は亡くなったらどうなるか、というと!
これがまた驚きです。本当にこれのせいで超一流の超常現象などという異名を取ってしまうのであります。というのは、遺体が腐らないのです。さて、大槻教授!この事実を一体どうやって説明するのでありましょうか!

これがその遺体の写真です。
http://www10.ocn.ne.jp/%7Enevers-j/espace/espace_qui.htm
死後100年以上経っているのにこの状態。本当に不思議ですよね。たぶん、保存するための特別な処置を施したりなどはしていないはずです。もちろんそういうわけで、これは蝋人形ではありませんが、一応皮膚のところはくすんできちゃったりしているので、表面は蝋を塗っているそうです。でも、中身は本物の遺体です。

それで、カトリックというのは仏教や神道の感覚に慣れ親しんだものから見ると実に不思議なのですが、聖遺物崇拝というのがあるんです。聖遺物とは聖人に由来する遺骨や遺物であり、奇跡を呼び起こす力があるというものです。これに関する教会や修道院の情熱は私たちの想像をはるかに越えるものがあるように思います。とっても霊験あらたかなんですね。

聖ベルナデットについては、1879年に亡くなってから、聖女の鑑定をするために以下のように色々な調査が行われます。
1909年 第一回目の遺体鑑定
1919年 第二回目の遺体鑑定
1925年 第三回目の遺体鑑定
この間足掛け16年。さすが腰を落ち着けてじっくりやるものですね。
で、この第三回目に聖遺物として、右側の第五、第六の肋骨の前の部分、横隔膜と肝臓の一部、左右両腿の筋肉の一部を摘出します。状態としては、非常によい状態で保存されていて、いかなる腐敗も被っていなかったそうです。驚きですよねー。しかし、これから聖女になるかもしれない人の体にメスを入れる神経もすごいと思いますが。で、なんか摘出する部位についてもなんでこんなところを・・・という感じですが、結局本命は心臓なんだそうです。しかし、遺体の姿勢からいって心臓を摘出しようとすると、たくさん傷をつけてしまうことになるため、上記のような摘出内容になったそうです。うーん。なんかすごい感覚。

というわけで、上記の部分を摘出された状態で聖ベルナデッタは今日も安らかに眠っています。なぜ、遺体が腐らないのか、これについては私も勉強中。徳が高ければ腐らないのでしょうか??そうすると、日本の即身仏なんて結局ミイラになってしまっているので、勝負はカトリックにありってこと?

これは、なんとしてでもこの目で聖ベルナデッタの遺体をいつかルルドへ行って見てみたいものです。

【関連記事】

聖母マリアの出現、現在理解中
http://www.myprofile.ne.jp/blog/archive/hiroette/716

【2004/07/29 追記】
うるうさんより、聖ザビエルの腕もあるよ、という情報をいただきました。
フランシスコ・ザビエルというのは織田信長の時代にスペインから九州に布教にやってきたイエズス会の神父さんです。やっぱり、いろいろ貢献したため1622/3 教皇グレゴリオ15世により聖人の一人に加えられたそうです。
ここ参照↓
http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/zabieru.htm

それで、またしてもザビエルの遺体は腐らないのですよ。
ザビエルの聖腕とは
「1551年11月15日、2年3ヶ月にわたる滞在の後に日本を離れたザビエルは、その後、一度も故郷に帰ることなく、同52年12月3日に、病を得て中国のサンシャン(上川)島で帰天ししました。45歳でした。
 後日、埋葬した遺体を掘り起こして見ると、腐敗を免れ、生前と同じ御姿を 保っていたので、これをマラッカに移し、さらにゴア(インド・1552年4月ここから日本に関しての手紙がローマのイエズス会宛てに送られています)の教会へと移されました。
1614年11月、遺体から右腕を切り離し、ローマ市内にあるジェズ教会に安置され、以後、多くの人の崇敬を集めて今日に至っています。」
だそうです。
http://www.ktarn.or.jp/kurume-u-hp/nakatsu/seiwan.html
ここより引用させていただきました。

このURLからザビエルの聖腕の写真が見えますが、なんだかやっぱり不思議ですねえ。
で、日本にはザビエル渡来400周年、450周年の際にこの腕が来日したそうです。まあ、あがめたい気持ちはわかりますが、腕だけ切り取るっていうセンスはやっぱりちょっとびっくりですが。

しかし、聖人は腐らないっていうのは本当に不思議だ。この現象が起こっているのが結局カトリックだけですから。あまり、空海の遺体が、、、とか。お釈迦様の骨を大切に崇め奉るとかっていう思想は仏教などにはないですからねえ。信じるところには現象は起こるということでしょうか。

ここに聖遺物崇拝をどう受け止めるかについてちょっと書いてあります。立花隆氏も本物見て「ほんまかいな!」とショックを受けたらしい。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/seiwan.htm

これらについては、またおいおい調べていこうと思います。


  

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